794年、桓武天皇(かんむてんのう)は都を平安京(へいあんきょう)に移した。桓武天皇は、東北地方を支配するため、坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)を征夷大将軍(せいいたいしょうぐん)として派遣した。また、政治に口出しする奈良仏教とは異なる新しい仏教として、空海(くうかい)の真言宗(しんごんしゅう)と、最澄(さいちょう)の天台宗(てんだいしゅう)を保護した。しかしその後、しだいに天皇の力は弱まり、摂政(せっしょう)・関白(かんぱく)が政治の中心となる摂関政治(せっかんせいじ)が行われるようになった。この地位についたのが藤原氏(ふじわらし)である。藤原氏は、天皇の外戚(がいせき)(娘を天皇と結婚させ、親戚関係になること)となることで、強い権力を持った。この藤原氏の力により、菅原道真(すがわらのみちざね)は遣唐使廃止(894年)を進言したにもかかわらず、大宰府(だざいふ)(現在の福岡県)へ左遷(させん)された。11世紀、藤原道長(ふじわらのみちなが)・藤原頼通(ふじわらのよりみち)親子の時代に、摂関政治は最盛期を迎えた。しかし、藤原頼通は天皇と外戚関係を結べず、後三条天皇(ごさんじょうてんのう)の時代に摂関政治は終わった。その後、白河上皇(しらかわじょうこう)が院政(いんせい)を始めたが、上皇と天皇が対立するようになり、武装した農民である武士(ぶし)を使った争いが起こった。1156年の保元の乱(ほうげんのらん)では天皇側が勝利し、その際に活躍したのが平清盛(たいらのきよもり)と源義朝(みなもとのよしとも)である。その後、両者は対立し、1159年の平治の乱(へいじのらん)で平清盛が勝利した。敗れた源氏の子である源頼朝(みなもとのよりとも)は伊豆(いず)へ流された。平清盛は、武士として初めて太政大臣(だいじょうだいじん)となり、政治の中心人物となった。また、大輪田泊(おおわだのとまり)を整備し、宋(そう)との貿易である日宋貿易(にっそうぼうえき)を行った。しかし、その政治は藤原氏と同じような独裁的なものであったため、評判は良くなかった。やがて源頼朝は再び力をつけ、弟の源義経(みなもとのよしつね)とともに、1185年の壇ノ浦の戦い(だんのうらのたたかい)で平氏を破り、平家は滅亡した。なお、武士の力が認められるようになったきっかけは、10世紀初めに起こった平将門の乱(たいらのまさかどのらん)(関東地方)と、藤原純友の乱(ふじわらのすみとものらん)(瀬戸内地方)である。朝廷は自らの軍事力だけでは反乱をおさえられず、武士の力を借りたことで、武士が社会に必要な存在として認められるようになった。

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①桓武天皇(かんむてんのう):平安京
②空海(くうかい):真言宗/高野山金剛峰寺(こうやさんこんごうぶじ・和歌山県)
③最澄(さいちょう):天台宗/比叡山延暦寺(ひえいざんえんりゃくじ・滋賀県)
④菅原道真(すがわらのみちざね):遣唐使廃止/大宰府
⑤摂関政治(せっかんせいじ):娘を天皇の外戚にする政治
⑥藤原道長(ふじわらのみちなが) 「この世をば わが世とぞ思ふ 望月の かけたることも なしと思へば」
⑦藤原頼通(ふじわらのよりみち):平等院鳳凰堂(びょうどういんほうおうどう)
⑧後三条天皇(ごさんじょうてんのう):摂関政治の終わり
⑨国風文化(こくふうぶんか):
・紫式部(むらさきしきぶ)『源氏物語』
・清少納言(せいしょうなごん)『枕草子』
・紀貫之(きのつらゆき)『土佐日記』『古今和歌集』
・寝殿造(しんでんづくり)
⑩白河上皇(しらかわじょうこう):院政
⑪平清盛(たいらのきよもり):日宋貿易/大輪田泊/厳島神社(いつくしまじんじゃ)
⑫壇ノ浦の戦い(だんのうらのたたかい):平家滅亡
⑬平将門の乱(たいらのまさかどのらん)/藤原純友の乱(ふじわらのすみとものらん)























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